ルネッサンス文化が花開き、ラファエッロを生んだ世界遺産の町
フィレンツェから東に約100キロ,マルケ州ぺーザロ・ウルビーノ県の北西部の丘陵地帯にそびえる美しい世界遺産の町がウルビーノです。
ローマ時代にはウルビヌム・マタウレンセと呼ばれていましたが、この意味はラテン語で”メタウロ川沿いの犂(農耕用具)の形をした土地”であり、その名のとおり犂のようなやわらかいカーブを描く丘に囲まれたアペニン山脈北部の山岳地帯にあります。
モンテフェルトロ家のフェデリーコ公の統治下、1400年代にイタリアルネッサンス文化の中心地として繁栄し、この地で画家ラファエッロが生を受け最盛期であった宮廷文化を吸収し、幼い彼の中に美的感覚をはぐくんでゆきます。その経過を歴史を遡りながら辿ってゆきましょう。
ウルビーノの歴史
紀元後500年頃までは、東ゴート族の戦いの中心地であったこの地域は538年東ローマ帝国の将軍ベリサリウスによってゴート族から奪われ、ロンゴバルド王国、フランク王国の支配を経て、フランク国王ピピンによって教皇領に献呈されます。その後1200年頃までは独立した都市国家として自治する姿勢をとっていましたが、モンテフェルトロ家の出現により貴族の統治下に置かれることとなります。彼らは自らの家系から国家の司法長官を輩出すべく市民に圧力をかけますが、その結果市民らは近郊の他の自治体と同盟を組んで反乱を起こすなど、国家の支配権を巡って悶着が絶えませんでした。
モンテフェルトロ家は現在エミリア・ロマーニャ州に位置するサン・レオを拠点としていたカルペーニャの伯爵の家系から来ており、サン・レオがフェレトリオ山(Monte Feretrio)の山頂に位置していることから”フェレトリオ山の”という意味で、ダ・モンテフェルトロ(Da Montefeltro)の名をとりました。
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ (Federico Da Montefeltro)
モンテフェルトロ家といえば、歴代の人物の中で最も重要なのがフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロです。1444年に暗殺されたオッダントニオ公に代わりウルビーノ大公国の君主となり、ウルビーノに”理想都市”(Citta’ ideale)と呼ばれるルネサンス文化の中心地たる宮廷文化を開花させました。
彼はカリスマ的な軍人であり、傭兵隊長としての軍事力、政治力に長けており、イタリア同盟軍の総司令官や教皇軍総司令官を務め、この時代の最も経済力のある軍人の一人でした。その経済力を活かし、彼はまた教養豊かな芸術保護者として各地から建築家、画家、彫刻家、哲学者、文芸家を招聘し、ルネッサンス建築の傑作であるドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)をルチアーナ・ラウラーナほか、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ、ドナート・ブラマンテなどの著名な建築家たちとともに築き上げますが、そのすばらしさは人文主義者であったカスティリオーネも”宮殿の形をしたひとつの都市”と賞賛しています。
そこには、ピエロ・デッラ・フランチェスカをはじめ、ラファエッロの父であり宮廷画家であったジョバンニ・サンティ、フェデリコ・バロッチ、ルーカ・シニョレッリなど多くの画家が訪れ、作品を残しています。
フィレンツェのウフィツィ美術館で見られるピエロ・デッラ・フランチェスカ作の”フェデリーコ像”の横顔からも分かるように、馬上槍試合で右目を失ったため、左目のみで反対側も見渡せるよう鼻の付け根の一部を切り落としたエピソードはあまりにも有名です。
モンテフェルトロ家の始祖であったカルペーニャ伯爵家(Palazzo di Carpegna)は現在でも邸宅に一族が住んでいて、予約すれば見学をさせてもらうことも出来ます。美術館さながらの室内や多くの絵画は美術史の好きな人にはもってこいの場。カルペーニャというマルケ北部の山の中にある小さな町に突如現れる巨大なお屋敷にはびっくりで、第二次世界大戦中にローマやミラノの多くの名作絵画を爆撃から守るため、極秘にこのお屋敷に運ばれ隠されていた、というエピソードもあります。
ラファエッロの誕生
名君フェデリーコ大公が亡くなり、息子グイドバルド一世が大公の座を継いだ翌年、1483年に宮廷画家ジョバンニ・サンティ(Giovanni Santi)の子としてラファエッロ・サンツィオ(Raffaello Sanzio)が誕生します。
時はボッティチェリがヴィーナスの誕生を手掛けシスティーナ礼拝堂の装飾が完成されたイタリアルネッサンスの全盛期。ラファエッロは父親の工房で絵画の手ほどきを受けながら、ウルビーノ宮廷文化の空気を肌に感じ取りつつ成長します。ところが母親マージャを8歳で、父親をわずか11歳のときに失くしてしまいます。父親の工房を受け継いだエヴァンジェリスタ・ディ・ピアンディメレートという画家からその後引き続き画技を学びますが、彼にとっての重要な師は、その後弟子入りすることとなる通称ペルジーノ、本名ピエトロ・ヴァンヌッチでした。ペルジーノはそのころの中部イタリアではとても人気の高かった画家であり、ラファエッロの父親ジョバンニが生前アドレア海沿いの町ファーノのサンタ・マリア・ヌオーヴァ聖堂のの祭壇画を製作中に、同じく聖壇画を担当していたペルジーノに息子の将来を託す申し出をしていたとも言われています。こうしてラファエッロはペルージャに移るため、故郷ウルビーノを離れることとなるのです。
その後フィレンツェを経てローマに移り、教皇のお膝元で宮廷画家に登りつめるわけですが、ラファエッロは晩年の”フォルナリーナの肖像”にいたるまで、”ウルビーノのラファエッロ”を意味する”ラファエル・ウルビナス”(RAPHAEL URBINAS)という著名を残し続けます。ここに彼のウルビーノ人としての誇りが色濃く伺え、故郷を思う郷愁的な感情が伝わってくるかの様に思えてなりません。
見どころは中心街に集中していますが、眺めのよさを狙うならアルボルノツ要塞のレジスタンス公園やちょっと郊外のサン・ベルナルディーノ教会からの景色はおすすめです。
在住者からのアドバイス
ウルビーノやグッビオなどマルケ州周辺の都市をご案内いたします。知られていない美しい町を日本語で通訳アテンドします。スーパーや市場のショッピング通訳、市内散策、バス観光のお供など便利で楽しい滞在をお手伝いします。『hayashi-marche@amoitalia.com』マルケ州カーイ在住:林 由紀子 スタッフ一覧