メディチ家の要塞と公園

アレッツォのメディチ家の要塞 アレッツォ
要塞の上空写真:改修作業前の写真なので壁の内側は森のようになっていますが、現在は掘り起こされた内側の壁なども見ることができます

入り口の目印は公園の真ん中の大きな像

公園、通称プラート(il prato)とメディチ家の要塞は大聖堂(duomo)の裏手にあり、公園の真ん中にある大きな像の後ろをまっすぐ行くと要塞の入り口にたどり着きます。この像はルネサンス時代14世紀のアレッツォ生まれの詩人フランチェスコ・ペトラルカに捧げられたもので、ひときわ高いところにある人物がペトラルカです。ペトラルカはローマ時代の属州アフリカを題材としたラテン語の詩「アフリカ」やラウラという女性に捧げた恋愛の詩を集めたトスカーナ語の叙情詩集(Canzoniere)を書いたことで有名で、像は彼の詩の象徴を集めたものになっています。ペトラルカは少年時代にアレッツォを去り様々な土地に住んだり旅行したりしましたが、生家は公園(il prato)の近くにあり現在は博物館として公開されています。

アレッツォ「メディチ家の要塞」
ルネサンスの詩人フランチェスコ・ペトラルカに捧げられた像。この裏側の道をまっすぐ行くと要塞の入り口です。

2016年から見学可能のニュースポット

2016年から見学可能になったばかりの入場無料のニュースポットです!要塞がある丘は標高300mほどで街一番の高地なので、紀元前8世紀以前から利用され、その頃から墓地や教会などがたくさんあったと考えられていますが、はっきり歴史資料に書かれていて現在も残っているのは14世紀に建てられた壁と、1538年にメディチ家のコジモ1世が最終的に整備した壁が中心です。壁の内側の多くの部分は土砂で覆われていたのですが、長年(イタリアで長年というとホントに長いです)発掘と修復作業が行われ、2016年の夏から一般の見学が可能になりました。

アレッツォ「メディチ家の要塞」
公園(il prato)ベンチもあるので休憩やランチもできます。白い像の裏手をまっすぐ行くと要塞に着きます。

五角形の要塞と5つの砦

入り口の外にある見取り図からもわかるように、要塞は五角形の壁に囲まれていて、5つの角それぞれに名前が付いています。
入り口の左右の二つの角は槍の先のように尖った形で、左側は北の角で食料などの貯蔵場所として使われていたので「氷の砦(とりで)」(il Bastione della Diaccciaia)、右側は戦闘の拠点だったので「刺(とげ)の砦」(il Bastione La Spina) と呼ばれています。残りの3つの角は丸みを帯びた形で、刺の砦の左側の損傷が激しい部分は「展望台の砦」 (il Bastione di Belvedere)、現在も発掘作業が続いている角は11世紀頃に聖ドナート教会があったので「教会の砦」(il Bastione della Chiesa)、最後の角は街の外からの救援部隊の入り口だったので「救助の砦」(il Bastione del Soccorso)と呼ばれています。

アレッツォ「メディチ家の要塞」
要塞の入り口までの林はトンネルのようで街中にいることを忘れそうです。

五角形の1辺の長さは約50mで壁の高さは3階建ての建物に相当するくらいですが、壁の内部と外部にスロープがあるのであまり意識しないうちに壁の上に出る感じです。壁の内側の小高い円形部分は周囲200mほどで、修復作業の際にコンサート用の舞台を設置したんですが、その工事の際に地面の下には要塞の貯水槽が今でも残っていることがわかったそうです。

見学は一部の壁の内部と「展望台の砦」以外のほぼ全周の壁の上が可能です。壁の内部の空間は現代美術などの特別展示場になっている時もありますが、基本的には当時の壁のまま残っています。ところどころ壁の低い位置に空いている小さい窓のような穴は銃眼で、壁の外の公園が見えますよ。壁の上に出たら、ぐるっと歩いて回りながらアレッツォの旧市街、大聖堂の鐘楼、近郊のオリーブ畑や杉並木などの眺めを楽しみましょう。

「救助の砦」からのパノラマをお忘れなく!

写真を撮るのも忘れないようにしてくださいね。壁の上で一番のオススメは「救助の砦」で、田園風景だけでなくジョルジョ・ヴァザーリの水道橋も一部見えます。ジョルジョ・ヴァザーリは多彩な人物でフィレンツェのウフィツィ美術館の設計を担当したことや芸術家に関する評論を書いたことで有名ですが、実はアレッツォの出身なんですよ。水道橋の実際の建設は1600年初頭にフィレンツェ人が手がけましたが、もともとの構想はヴァザーリが考えたため、彼の名前が付いています。

アレッツォ「メディチ家の要塞」
壁の内部はライトアップされていて中世への道のようです。天井部分の穴は通気口で、火薬の煙などで兵士が窒息するのを防いでいました。

要塞の起源は紀元前にさかのぼります

五角形の壁とその内側の公園のようなスペースと言ってしまうとそれだけですが、この要塞はアレッツォの歴史と深い関わりがあるんです。アレッツォは紀元前7世紀頃からエトゥルリア人が住んでいて、現在「とげのとりで」の上の壁から見える要塞の外にある石組みはエトゥルリア人が作ったとされています。エトゥルリア人は特徴的な黒い土器や青銅器などを生産し、周辺地域と交易をして栄えていたんですが、紀元前4世紀頃には南部から広がってきた古代ローマ帝国に吸収されます。アレッツォは帝国拡大の戦略拠点として重要な役割を果たしていたと考えられ、現在「氷のとりで」と「救助のとりでをつなぐ壁の内側のテントが張られている所からは、なんと紀元前1世紀終盤の建物の基礎が発掘され、白と黒の蜂の巣模様と畳模様のモザイクの床が現れました。

アレッツォ「メディチ家の要塞」
壁の下と上の両方を歩いて見学することができます。壁の内側はきれいなアーチ状になっています。また「氷の砦」の辺りはグイド・タルラーティが建設した内側とコジモ1世が建設した外側の2重の壁があるのがよくわかります。

要塞はアレッツォ市民の反乱の証

ローマ帝国が5世紀に崩壊した後アレッツォは混乱の時代が続きますが、9世紀終わりから12世紀頃にかけて町の支配権は徐々にキリスト教の司教が握るようになり、特権階級とアレッツォ市民の間に軋轢が起こり始めます。1312年にアレッツォ司教になったグイド・タルラーティ(Guido Tarlati)は旧市街を囲む城壁の拡大と要塞の建設を命じましたが、たびたび起こる市民の反乱によって損傷と修復が繰り返されます。司教VS市民の攻防が続いているうちに、14世紀に入るとアレッツォはフィレンツェで勢力をつけたメディチ家からの攻撃を受けるようになり、1384年には4万金貨でフィレンツェに買い取られてしまいます。アレッツォ市民の攻撃先はフィレンツェに移りますが、メディチ家のコジモ1世は1538年に要塞の改修を命じ、アレッツォ制圧の拠点としました。だから現在残っている要塞には、アレッツォ市民が攻めてくる公園(il prato)に面した「とげのとりでに銃眼がたくさんあるんですね。現在の要塞の形はその頃火薬が戦闘で使われるようになったことにも関係があります。それまでの戦闘では飛び道具といえば弓矢だったので、高い塔を建ててより高い位置から的を狙ったほうが有利でした。しかし、大砲に対抗するには頑丈な壁が必要だったので、壁の外側の裾は大砲の弾が転がり落ちやすいよう傾斜がつけられ、壁の内側は強度の高いアーチ状の構造になっています。

アレッツォ「メディチ家の要塞」
「救助の砦」からの景色。ジョルジョ・ヴァザーリの水道橋も見えます。

要塞は歴史に翻弄されたアレッツォの象徴でもあります

その後200年ほどはトスカーナ大公国となったフィレンツェの支配が続きますが、1737年にメディチ家の最後の子孫が亡くなると、アレッツォを含むトスカーナ地方一帯はオーストリアのマリア・テレジア(Maria Teresa d’Austria)と結婚したフランチェスコ2世(Francesco di Lorena)に継承権が渡り、神聖ローマ帝国の支配下に入ります。フランチェスコの孫のフェルディナンド3世の時代にフランスではナポレオンが台頭し、1799年にはとうとうアレッツォまでフランス軍が到達しました。アレッツォ人は「マリア様万歳」(Viva Maria)と叫びながら果敢に戦いましたが、フランス軍に制圧されてしまい、要塞の展望台もその戦闘の際に爆薬によって多大な被害を受けました。トスカーナ大公国は1801年にオーストリアからフランスに譲渡され、ナポレオン1世の妹エリザ・ボナパルトがトスカーナ大公位に着きました。

アレッツォはその後、1860年にサルデーニャ王国、1946年からはイタリア共和国の一部となり、要塞の所有権も貴族の個人を経てアレッツォ市へと移行しました。現在の要塞はとてものどかですが、アレッツォの歴史が凝縮されたこの場所ではたくさんのドラマがあったはずです。当時の攻防戦を想像したり、何百年も経った同じ場所に自分がいる不思議を感じたりしてみてはどうでしょうか。

意外なサプライズもあります

実は、要塞の裏はアレッツォ市の墓地になっていて、壁の上から全貌できるんです。ほとんどの方はイタリアの墓地を見たことがないと思うので、ここで少しイタリアの埋葬法について説明しましょう。イタリアはご存知のように大多数がカトリックで、カトリックの信仰ではイエスキリストが再び地上にやって来て最後の審判を下す時には死者も復活し、天国へ行けると考えられています。だから火葬ではなく、遺体を収めた棺を丸ごと埋葬するんですね。それで、黒ミサなどの目的に遺体が盗まれるのを防ぐために、墓地の周りは全て塀に覆われていて入り口も夜間は鍵がかけられます。埋葬方法は棺を地面に直接埋める方法と壁に埋め込む方法がありますが、日本のように家族で1つのお墓という決まりがないので、昔は夫婦のどちらかが亡くなると、隣に並べるように2つまとめて埋葬場所を買っていたそうです。ただし、アレッツォ市では埋葬場所が不足気味なので現在では亡くなる前に買うことはできなくなっています。結婚式の「死が二人を分かつまで」というセリフはお墓にも当てはまるんですね。例外は家族専用の礼拝堂で、小さな家のようになっているので要塞から見てもわかると思います。ここには夫婦だけでなく家族の全員を埋葬することができます。なかなか見る機会のない墓地は、いろいろなお墓が見えるので(不謹慎かもしれませんが)興味深いですよ。

アレッツォ「メディチ家の要塞」
「氷のとりで」と「救助のとりで」をつなぐ壁からはアレッツォ市の墓地が見えます。壁のすぐ外側なので圧巻の眺めです。
スタッフ

在住者からのアドバイス 

きれいに整備されていて絶好の景色を楽しめるので、天気のいい日はホントに気持ちがいいです。入場料も無料なので大聖堂を見学するならついでに要塞まで足を伸ばしてみてください。ただし、公園(il prato)は日中は犬の散歩やジョギングする人がちらほらいますが、要塞の入り口までの林は道路からの見通しがあまり良くないので見学は明るい時間にしましょう。 

アレッツォ在住:松若 朋恵 スタッフ一覧

アーモイタリアの日本語ツアー、専用車送迎サービス

トスカーナの専用車ツアー
現地在住の日本人アテンドが運転手付き専用車で、美しいトスカーナの町々をご案内するオプショナルツアー。ピサの斜塔、サンジミニャーノ、シエナ、キャンティのワイナリー見学、世界遺産オルチャ渓谷などをお楽しみください。現地ガイドが直接提供します
フィレンツェの送迎サービス(日本人運転手)
トスカーナ州公認ハイヤーライセンスを所有する日本人ドライバーがご希望の場所へお連れいたします。空港送迎やトスカーナ内移動のほか、ローマ、ミラノ、ベネツィアなど長距離の送迎も可能です。黒塗りベンツで7名までご利用いただけます。料金も手頃で安心です

メディチ要塞の基本情報

名称 Fortezza Medicea(メディチ要塞)
おすすめ
住所 Viale Bruno Buozzi, 52100 アレッツォ
行き方 アレッツォ国鉄駅から徒歩18分。町の一番奥にあります。
電話番号 +39 0575401945
休館日 月曜日
開館時間 火~金 10:00~18:00
土・日 10:00~12:30 14:00~19:30
入館料 無料
その他
サイト https://www.fondazioneguidodarezzo.com/
タイトルとURLをコピーしました